錦織一里塚
河内長野の市境から国道旧170号線を、100mほど富田林市へ入った所にあります。東高野街道の一里塚としては、本来の形である一対となって残された、大阪府下では唯一のものです。国道に面した、西側の塚には宝篋印塔があり、承応2年(1653)と、いま一基に、宝永6年(1709)の銘がそれぞれ残されています。東側の塚は、隣接する工場の裏手となっており、落ち葉に埋もれた旧東高野街道を挟んで、木立と厚い腐葉土の下にひっそりと残されています。
街道の一里塚は、江戸時代に入って二代将軍秀忠の時代に、その制度がほぼ整ったとされます。一里ごと五間四方(約9m)の一対の塚とし、道程を計る標識となり、荷馬や人足の賃金の基準となりました。
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