東高野街道

錦織一里塚

錦織一里塚

 河内長野の市境から国道旧170号線を、100mほど富田林市へ入った所にあります。東高野街道の一里塚としては、本来の形である一対となって残された、大阪府下では唯一のものです。国道に面した、西側の塚には宝篋印塔があり、承応2年(1653)と、いま一基に、宝永6年(1709)の銘がそれぞれ残されています。東側の塚は、隣接する工場の裏手となっており、落ち葉に埋もれた旧東高野街道を挟んで、木立と厚い腐葉土の下にひっそりと残されています。
 街道の一里塚は、江戸時代に入って二代将軍秀忠の時代に、その制度がほぼ整ったとされます。一里ごと五間四方(約
9m)の一対の塚とし、道程を計る標識となり、荷馬や人足の賃金の基準となりました。


孝子地蔵

 地蔵道標で、元文2年(1737年)11月24日 左 まきのう道
と読み取れます。地元の人たちによって地蔵堂に祀られています。

 孝子地蔵の由来は、西国巡礼に出かけた母娘が有り、母親は長旅の疲れで、この地で倒れ帰らぬ人と成りました。村人は母を無縁墓に葬り、娘を慰めました。
 数年後、この娘がこの地を訪れて、世話に成った村人に礼を述べて、母の霊と道中で亡くなった人を供養するために、村人と相談して、一体の地蔵尊を祀りました。

 その孝心を称えて「孝子の地蔵さん」と呼ばれる様に成りました。
孝子地蔵

千代田神社

千代田神社  祭神 菅原道真 

 市北端部の石川左岸台地の東端に位置し、市町の北山の森にあります。かつては、天神社、天満宮、菅原神社、北山神社などと呼ばれていました。元禄5年(1695)の膳所藩の記録には、「天神」の記載があります。ここには、二体の木造男神像があり、いずれも市の文化財に指定されています。うち一体は、12世紀の作とされ、高さ36cmのヒノキ材の坐像で、梅花紋が残っていることから、祭神の菅原道真と推測されています。

灰原池

 池の東堤防の中ほどに、一基の墓石と、顕彰碑が建っています。
碑文には、天保年間(1830−43)市村の庄屋 杉村栄助の功績をたたえ、その墓と共にここに建てる
 とされています。これは、千代田中学校の建設のため、池の半分を埋め立てた際に、市村水利組合によって建てられたものです。
 庄屋栄助は、天保年間 小池であった灰原池の拡大を図り、水を寺ヶ池から引いてここに貯水し、
さらに下の稲田池へと水路を通しました。それにより、市村の東北部にあった数十町の高畑は、
ことごとく稲田と変わり、村民の利益のため大きな功績を挙げたとされています。

 池の東北隅には、”市村の北向き地蔵さん”と呼ばれる地蔵尊を祀る祠があります。
また、その横手には、陰陽石を納めた小さな祠もあります。
 統治の地名「市村」は、市が開かれていたことを示しており、物を産み出す とされる陰陽の石は”市神”的な要素を持っていたと思わせるものです。
東高野街道・巡礼道分岐点

東高野街道・巡礼道分岐点 

{正面}右 まきの  {右}祭主西井和佐衛門    行武大土租守護神 嘉永七寅八月 日
    左 こうや    (1854

 市町の南端、上向野より「長坂」を下り向野へ入ります。
坂の頂上では、西へ折れる、巡礼道が有り、原町へ向かいます。分岐点には自然石の道標が在ります。

 巡礼道は4番の施福寺から5番葛井寺への道です。


錦渓山 極楽寺  融通念仏宗

 寺伝によると、聖徳太子の命で薬師如来が安置され建立された、錦渓山温泉寺が創建とされます。
 正中
2年(1325)中興の祖といわれた法明上人が、近郊に点在していた道場をこの地にまとめ、極楽寺 として再興しました。
 現在の本堂は、寛政から天保(
1789^1843)にかけて再建されたものです。本尊は、木造阿弥陀如来坐像で、比較的旧状をとどめた秀作とされています。

錦渓山極楽寺

高野街道案内図

高野街道案内図

 国道310号をまたぐ、近鉄ガード下にあります。是は、平成15年に拡張工事が完成した際、近畿日本鉄道によって造られたものです。案内図の土台となっているレンガの塊は、近鉄長野線の前身河南鉄道が、明治35年(1902)河内長野駅まで開通した当時の、線路を支えた橋台に使われていたものです。今回の改修、拡張工事までの100年余に及んだ役目を終え、このような形で残されています。街道案内図には、市域の高野街道と主な名所旧跡が、又、案内板には、東高野街道についての簡単な説明文があります。




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